浅暮三文の略歴と幾つかの秘密

出生の秘密

1959年3月21日、春分の日に生まれる。そのため小学校の教師に春ボケの子供やなぁ、と言われる。出生地は兵庫県西宮市、小さな山のふもとの家。通信簿の連絡欄に、落ちつきがないといつも書かれていた。近所のお絵かき教室に足繁く通い、スーパージェッターの油絵なども描く。小学校の卒業アルバムには、大きくなったらスパイになると書いている。幼稚園時代は船乗りと書いていた。タップダンサーになりたかった覚えもある。物心ついてから、なぜか自分はもらわれてきた子供だと思い、何度も実母を捜すため、山へと小旅行に出かける。そのため、母親は私が遠くに行っても、台所の窓から見えるように、いつも真っ赤な服を着せていたらしい。

本との出会い

小学校時代は近所の田井君や松下君と図書館の少年探偵団やルパン、ホームズなどのポプラ社のシリーズを争って読む。父親の本棚には創元・早川の文庫が雑多に山ほどあった。幼心に火星のプリンセスの薄物をまとった絵に……。同時に本棚に並ぶ眠狂四郎の水牢責めの美女などにも……。で時代劇を知り、山手樹一郎、南条範夫なども読む。また母親はミニカーの代わりに、童話や絵本ばかり与える人だった。で岩波の箱入りのプーさん、長靴下のピッピ、いやいや園、エルマーの冒険、マーク・トゥェインなどを読む。お気に入りはシートン動物記だった。

この頃、仲間と探検中にカモノハシらしき生物の死体を対岸の薮で発見する。あまりに臭いので、もってこなかったが翌日、先生に報告すると、とりあってくれない。仕方なく死骸を回収しにでかけだが、その時にはもうなかった。いまだにカモノハシだと信じている。

思春期

本屋に立ち読みに通う。『S-Fマガジン』と『SMマガジン』を間違って読んだのも、この中学生の頃。当時、どちらも同じ版型で、その本屋では並んで置いてあったのだ。団鬼六に衝撃を受ける。

一方、学校では地理歴史研究部というのに入る。なぜか当時、古墳や土器に興味があった。ある日、山に出かけて造成中の崖を掘っていると、不思議な物を発見する。刀の鞘のようなものと蒲鉾板を太らせたような足がある金属。いずれも腐食したような相当、古いものだった。さっそく部の顧問の先生に渡し、鑑定を依頼する。結果はどちらのものも、何か分からないとされた。いまだに邪馬台国は西宮にあったと思っている。

青春期

中学の音楽の成績が「1」で、私立高校に通う。そこで軽音楽のカッコヨサに目覚める。当時はアリスとかチューリップの全盛だったが、なぜかフォークのルーツを求め、高石友也や岡林信康に感化される。そしてアメリカのジョン・バエズやウディ・ガスリーへ。それらのルーツがアメリカ・マウンテン・ミュージックと知り、カントリー、ブルーグラスにのめりこむ。そのまま大学に入り、アメリカ民謡研究会へ。

しばらくエンターテインメント小説とは疎遠の時代が続くが、織田作之助などは愛読していた。高校時代には異色作家短編集、フレドリック・ブラウンなど、幻想文学の一歩手前に。

コピーライターへ

大学卒業後、広告代理店の営業として働く。地を這うような経験をする。そのうさばらしに、幼い頃に読んだ絵本や童話の延長線のファンタジー・幻想文学があった。故郷に帰ったような安堵を覚え、再び創元・早川などの文庫を読む。いつまでも地を這っている訳にもいかず、一旗あげるつもりでコピーライターの勉強を始め、数年後、上京。丁稚奉公から始めて、賞取りライターへと進む。プロダクションを経て、代理店に入り、会社の仕事、アルバイトと多忙な金儲け時代に。しかし心のどこかにすきま風が吹き込むのを覚え、儲けた金は全部、飲んでしまっていた。働く、飲む以外は何もしていないので靴下が臭いので有名だった。

処女作までの道

二十代後半頃から、過密な仕事にストレスを感じ始める。広告の仕事以外に生き甲斐と感じる物は何かを考え、小説の投稿を始める。短編しか書けなかったが、三度目位で一時通過と雑誌に名前が載り、もしかしたらと勘違いする。仕事・アルバイト以外にもうひとつ作業を増やすはめになる。睡眠のリズムがだんだんおかしくなり、会社に行くのが昼、ひどいときは夕方になる。で、ペンネームである浅暮を思いつく。

三十の頃、やっと投稿作が最終選考までいき、ちゃんと勉強しようと森下一仁先生の門下生となる。ただただ、七年修行する。ついに初めて長編五百枚を仕上げ、投稿、最終手前までいく。勢いをかって次作も長編、同じ賞に応募、最終候補に残る。ファンタジーノベル大賞だった。しかし受賞を逃し、悶々とするも、もったいないので丁寧に全面改稿をして違う賞に投稿。別作にとりかかっていると、それで受賞してしまう。まさに捨てる神あれば拾う神あり。なんとかデビュー。アルバイトはやめる。いまだに睡眠のリズムは夜型に定着している。いまだに発展途上の作家生活にいる。